夜は月に吠える

孤高ではないただの孤独な一匹狼です。2/25までブログ休止

情け

「情けは人のためならず。」


この言葉は本当に深い意味があるなと常々思う。


原義は、「人に親切な行いをするといずれ巡り巡って自分のもとによいことが還ってくる」という意味。


つまり、他人への親切は(その人のためではなく)自分のため、ということ。


なるほど、人に親切にすると、自分が得をするのだな。


たしかに、いつも笑顔で他人に接していて気持ちをよくさせていたり、困っているときにさっと助けたりする人は、たいてい好かれやすい。


人に好かれると、好かれないよりも得をすることが多いだろう。
自分が困ったとき今度は逆に助けてもらいやすくなるかもしれないし、お返しに何かお菓子でももらえるかもしれない。これは大いに納得。


自分はこの「自分のため」という言葉には、まだ他にも意味があると思う。


人に親切にするということは、自分の時間や労力(場合によればお金)を大なり小なりその人にかけるということ。


人間は不思議なことに、自分が少々損をしても、他人が喜ぶ姿を見ると、その損はすっかり忘れてしまい、一緒に嬉しくなってしまうものだ。


人に親切をすると、その人が喜んでくれ、自分も幸せな気持ちになるので、自分が得をする、という意味も含まれていると思う。


(まぁ、それも、「巡り巡って還ってきたよいこと」のうちの一つともいえる。)





この言葉は「だから、他人に親切にしなさい。」という教訓が続くこともある。


私はここまでくると疑問を感じる。


たしかに、「情けは人のためならず。」は間違っていない。


しかし、だから人に親切にする、というのは違うと思う。


正確に言えば、親切にしないことと比べるとよいことかもしれないが、歯車がかみ合わなくなってくる気がする。



情けが人のためではなく自分のためになるのは、真心込めてその人に対して親切にした場合だけだと思うから。


自分のために行う他人への親切は、取り繕っていても、いずれ他人も気付くものだ。


つまり見返りを求めるを親切にしてもらった人が察知すると、その人が心底喜ぶことは難しくなる。


結果的に、自分へ還ってくるはずのよいことは還ってこなくなることが増え、「親切にしても、意味ないじゃん」というパターンに陥る。


情けが自分のためになる場合は、真心を込めてしたときに限るという条件付き。




たまに「あの人は冷たい。あんなこともしてあげたのに、礼の一つもない。」という人がいる。


(人に親切にしてもらったときに感謝を口にするのは、人として基本的なことだと思うが、何か事情があって言い忘れただけかもしれない。口内炎が痛すぎて話せなかった可能性もある。いずれにせよ、その人が礼を言わなかったことの是非はここでは論じない)


ただ自分が感謝されたい、優しい人だと思ってほしい、というのためにその人は親切をしたのだ。


だから、そのが満たされなかったとき、イライラして、結局自分のためになっていない。


自分が得をするために行ったはずの親切が、逆に自分に損をさせることになる。






だから人に情けをかけるときは、決しては出さない。当り前のことで、やってみると案外難しい。


かけて、忘れる。かけて、終わり。かける、それだけ。


たとえ目に見えるよいこととして自分に還ってこなくても、それだけに価値がある行為だから。


欲がどうしても出てきてしまう器の小さな人は、親切にしないほうが何倍も潔い。


「自分は器の小さな欲深い人間である。人に感謝や見返りを求めてしまうから、いっそ人に親切にしないぞ。」と決めた人は、少なくとも、自分を客観的に分析できているし、何より謙虚さがある。


自分はそのことを肝に銘じて、自分のできる親切しかしないようにしている。


そして、少しずつ少しずつ自分のできる範囲を広げる、自分の器を大きくすることを目標にしている。



人に親切にするときは、自分を忘れて、その人のことだけを考えればいい。


そうすればいつの間にか「情けは人のためならず」、自分のためになっている。



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